空いたデスク
土曜日、休日だったが森崎は出社していた。夕方、高野との約束の時間に合わせて経営企画室の部屋を出た。
休日用の通用口に向かう途中、制作部のフロアの前を通った。休日とはいえ制作部はいつもより人が少ない。ただそれだけのことだった。しかし、一つのデスクが変に空いているように見えた。殺伐とダンボールなどが置かれていた。
「あのデスク、誰のですか?」と、廊下を歩いていた制作部の若い女性スタッフに聞いた。
「あ——木村さんのです。先週、辞められて」
「木村さん?」
「ディレクターの。入社6年目ですが、優秀な方だったんですけど」と彼女は言った。
「次はどこへ行かれるか、聞いてないですけど、テレビじゃないみたいで...」
「そうか...」
「最近、なんか多くて」と彼女は小さな声で言った。「辞める人」
森崎は少しの間、その空いたデスクを見た。
木村という名前には、心当たりがあった。去年、ローカルのドキュメンタリー番組で賞を取った若いディレクターだ。信陽の過疎化した山間部の農家を追った作品で、業界誌にも取り上げられていた。
その人間が、辞めた。テレビじゃない場所へ。
森崎は駅に向かった。夕方の信陽の空が、少し赤かった。

居酒屋での再会
例の居酒屋に着いたのは、午後7時を少し過ぎたころだった。
カウンター8席、小上がりが二つの、まだ記憶に新しい店だ。
SYTの社員は他にいない。地元の常連客が数名いるだけだ。
森崎が初めてこの店に来たのは、中計書Ver.2を経営会議で説明した翌日のことだった。
高野は既に座っていた。
スーツではなかった。白っぽいシャツに、明るめのジャケット。「病気休養」中の高野は、社長室にいたときより少し若く見えた。ただ、目の鋭さは変わっていなかった。
「来たか」と高野は言った。
「お待たせしました」
ビールを頼んだ。乾杯はしなかった。ただ、それぞれが一口飲んだ。
高野が語ったこと
「藤原さんのことから、聞いていいですか」と森崎は言った。
高野はグラスを置いた。少しの間、黙っていた。
「捜査一課が動いているのは知っている」と高野は言った。
「藤原さんが辻本さんの自宅を訪ねたこと、そして辻本さんが倒れたとき、藤原さんがその場にいた可能性——一課はそこを調べている」
「高野さんは、知っていたんですか?」
「亡くなってから、しばらくして知った。警察関係者からだ」
高野は続けた。
「藤原さんは優秀な人だった。報道人として、本当に真っ直ぐな人だった。ただ——若い役員として、上田や森元の顔色を読みすぎた。中田さんの取材情報を取締役会の後に話してしまったのも、悪意からではなかったと思う。ただ、それが上田たちの隠蔽に使われた。辻本さんの資料を持ち出したのも、彼女なりの責任感だったのかもしれない」
「辻本さんの資料を持ち出した?それは亡くなった夜のことですか?」
「そうだ。辻本さんを助けることより、資料を先に考えてしまった。その後悔が——最後まで消えなかったんだろう」
高野は窓の外を見た。陽北新地の夜の灯りが見えた。
「捜査一課が任意聴取したとき、藤原さんはすべて正直に話したんだと思う。それが自ら命を絶ったことの引き金になったのかもしれない。私には止められなかった」
森崎は何も言わなかった。
しばらく沈黙があった。
「辻本さんを引き留めたのは、私だ」と高野は言った。
「3年前、そのまま定年退職するところを、嘱託として残ってもらった。SYTの古い財務の流れを調べてほしかった。信陽建設との間で、何が行われてきたか」
「それを、辻本さんに...」
「辻本さんは、知っていたんだ。1990年代後半から続いてきた、信陽建設が長く提供している『信陽の夜明け』の番組制作費を通じた裏金の流れを。経理部長として、その帳簿を見てきた人だった。だから——私が頼んだとき、二つ返事で引き受けてくれた」
高野はビールを一口飲んだ。
「辻本さんが株主名簿のコピーを森崎くんに持参したのは、私が指示したわけではない。ただ——辻本さんなりに、この人間なら信頼できると判断したんだと思う。私が森崎くんを経営企画室に呼んだことを、辻本さんは知っていたからね」
「つまり」と森崎は言った。「全部、繋がっていた」
「そうだ」と高野は静かに言った。
「ただ、想定通りには進まなかった。辻本さんが急に亡くなって、藤原さんも逝った。私はスキャンダルで動けなくなった。想定外のことばかりだった・・」
本音
「一つだけ、聞かせてください」と森崎は言った。
「何だ?」
「私は——高野さんの計画の中のパーツだったんですか」
高野は少し笑った。
「そう思うか?」
「そう思っていた時期もありました」森崎は静かに答えた。
高野はグラスを両手で包むようにして、少し考えてから言った。
「『パーツ』として選んだのは、最初だけだ。森崎くんが中計書を再考して持ってきたとき——私が黒沢と描いた絵と、同じ場所を指していると思った。あのとき、正直に言うと、少し驚いた。それから、信頼に変わった」
「信頼...最近のことですね」
「まあね、でも君は、誰かに設計されなくても、同じ場所に辿り着く人間だ。だから頼めると思った」
森崎は何も言わなかった。ただ、その言葉が、今夜ここに来て良かったと思わせた。
記者会見への決意
「私は近いうちに記者会見を開く」と高野は言った。
「SYTの関与を、公表する」
「上田さんと森元さんは?」
「捜査が進めば、自ずと明らかになる。私がやるべきことは、SYTとして先に公表することだ。やってはいけないことは、知ったことを隠さないことだ。隠し続けた組織が、自ら膿みを出す。それだけが、SYTが次に進める唯一の道だと思っている」
「記者会見は他局のカメラも入れるんですか?それとも・・」
「もちろん、入れるさ。動画撮影もありだ。SYTはテレビ局だからな」
「記者会見の後は?」と森崎は聞いた。
高野は少し間を置いた。
「その後は、頼む」
それだけだった。それ以上の言葉はなかった,,,。
二人はしばらく、黙って飲んだ。
テレビの音が、小さく聞こえていた。SYTの夜のニュースだった。
カウンターの端で、常連らしい老人が一人、まだ静かに酒を飲んでいた。
二人で店を出ると、陽北新地の夜風が少し冷たかった。
「森崎くん」と高野が言った。
振り向くと、高野が少し笑っていた。
「最初の中計書、本当は90点くらいあったよ」
「えっ」
「60点と言ったのは、もっと良くなると思ったからだ。君ならできると思ったからだ。——実際、Ver.2はそれ以上のものになったしな」
森崎は何も言えなかった。
高野は「じゃあ」と言って、夜の路地を歩いていった。
森崎はしばらく、その背中を見ていた。
信陽の夜が、静かだった。
ー つづく ー
作:楳田 良輝|Yoshiteru Umeda
*本小説はフィクションです。出典・引用などを除き、登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。

