It always seems impossible until it’s done.
コンビニが「実験場」になるという話。

コンビニが「実験場」になるという話。

Yoshiteru Umeda|楳田良輝前略。

結論が出る前の話や
手ざわりの残る出来ごとなどを
余白にて、書きとめています。

今回は、
コンビニが「実験場」になるという話。
という話です。

市場はいつから実験室になったのか

メーカーの試作品を1円で販売する。

そのニュースを読んで、
なるほどな、と思い、
スマホをスワイプする指が
一瞬止まった。

たしかに「1円」であっても、
それは購買である。

レジを通り、
データに残る。

たまに見かける「無料配布」とは、明らかに違う。

しかし同時に、
なぜか「実験」という言葉が
頭から離れなかった。

実験は誰のためのものか

実験、それは企業にとっては合理的である。

リアルな売場で、
リアルな生活者の反応が取れる。

アンケートよりも確かで、
モニターよりも自然。

けれども、
生活者はその瞬間、
自分が「実験」の一部であることを
どこまで意識しているのだろうか。

自動車メーカーの「実験都市」で生活する人とは
ちょっと立場が違う。

もちろん、現時点で違法という話ではないのだろう。

ただ、問題は合法なのかどうかではなく、
市場が今後どんな場所になっていくのか、
ということである。

売場は中立なのか

コンビニは、生活の動線の中にある。

朝のコーヒー。
昼の軽食。
夜のちょっとした買い物。
公共料金の支払いや
逆にお金をおろしたり
フリマで売った商品を配送できたりもする。

その売場が「企業の実験場」になる。

前向きな進化ではあるが
同時に小さな違和感も伴う。

売場はただ商品を並べる場所ではなく、
選ばれ、設計され、
もっともっと検証される空間となる。

ただ、その設計は、
完全に中立なのだろうか。

法律は線を引いてくれるが、
その線の内側にあるものすべてが
いつも安心とは限らない。

選ぶということ

データがある以上、
選ぶことが可能になる。

これは「売る側」から見た話である。

誰に届けるか。
誰に届けないか。

つまり、
“ 1円で試して欲しい人” を
自由に決めることができる。

効率的である。

けれど、
効率と公平は、
いつも同じ方向を向くとは限らない。

市場とメディアの境界

最近、「リテールメディア」という言葉を
よく耳にする。

売場(リテール)がメディアになる。

もしそうなら、
そこにはどんな責任が生まれるのか?

そこでは、放送のような厳格な公共性は
求められないかもしれない。

(放送が必ずしも公平だとは言っていない)

けれども、
生活インフラに近い存在が
情報と価格の両方を握るとき、
まったくの “私的空間” とも言い切れないだろう。

市場は市場のままでよいのか。
それとも、
少しだけ社会的な自覚を持つべきなのか。

余白として

1円という数字は小さい。

けれど、
その背後にある構造は
意外と大きい。

実験は進化である。

ただし、
実験場がどこにあるのかを
ときどき確かめておきたい。

私たちは市場の参加者であると同時に、
その構造の一部でもあるのだから。

 

(楳田 良輝)