It always seems impossible until it’s done.
小説、テレビ信陽〜第12話「沈黙」

小説、テレビ信陽〜第12話「沈黙」

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眠れなかった夜

森崎は、朝までほとんど眠れなかった。

高野社長の電話番号を知ってはいた。
何度か迷ったが、自分からかけることはできなかった。しなかった。

スマホのアラームが鳴ったのは、いつもと同じ午前6時ちょうどだった。
リビングのソファで目を覚ました。スマホの画面を見たまま、少し眠ってしまっていたようだ。

週刊誌のウェブ記事は、かなりのアクセスを集めているのだろう。
SNSにはひどい書き込みも多かった。何を知っているのか?、私もわからないのに。

「テレビ信陽・高野社長の密会、1年間の不倫関係」。

見出しはそのままだったが、続報が出ていた。写真も掲載されていた。夜の繁華街で高野と思しき男性と、隣に立つ若い女性。顔にはモザイクがかかっていたが、その男性の体格と服装は見覚えがあった。

ネットニュースが続々と追いかけていた。
ローカル局の社長スキャンダルとしては、異例の広がり方のように思えた。

共働きの妻が朝支度をしながら声をかけてきた。
「会社、大変なんじゃないの?」

森崎は「ああ...」とだけ答えた。

SYTの朝

いつもより少し早い午前8時前に会社に着くと、廊下の空気が違った。

普段なら管理部門は、まだ業務の準備に追われていない時間帯だが、あちこちで人が立ち話をしていた。声は小さいが、目が動いている。昨夜からのニュースをみんなで確認し合い、互いの顔色を読み合う——そういう朝に見えた。

経営企画室に入ると、田所蓮がすでにデスクにいた。

「森崎さん、見ましたよね?」

「見た」

「どうなるんですかね」と田所は言った。答えを求めているわけではなかった。ただ、誰かに言わずにはいられない、という顔だった。

森崎は自分のデスクに座り、パソコンを開いた。メールが数十件届いていた。業界の知人からのものが多かった。「大丈夫ですか」「何かあれば」という言葉が並んでいたが、もちろん大丈夫ではなかった。

午前9時、社内イントラネットに総務部長名義の通知が届いた。

「本日の定例会議は予定通り実施します。役員各位および関係部署は通常通り業務を行ってください。」

それだけだった。高野社長のことは何も書かれていなかった。

高野の沈黙

午前10時を過ぎても、高野社長からも、それ以外にもアナウンスらしきものはなかった。

森崎は廊下を歩きながら、社長室のある方向を何度か見た。ドアは閉まっていた。秘書が「本日は来客対応中です」と言うだけで、それ以上の情報は出てこなかった。

午後に入ると、報道部の村田記者が経営企画室に顔を出した。

「森崎さん、社長から何か聞いてますか?」

「いや、何も」

「報道部に、コメント取りの依頼が来てるんですよ。他局から」と村田は小声で言った。「こっちも困ってるんですが・・」

ローカル局の社長スキャンダルを、その局の報道部がどう扱うか。報道部が「身内の問題」を取材する矛盾。村田の顔には、その難しさがそのまま出ていた。

「藤原局長は」と森崎は言った。

「今、役員フロアに呼ばれてます...」

役員フロアの攻防

結局、その日は何か大きな進展もなく、高野社長と会うこともなく1日が過ぎた。経営企画室としては、もっと対処すべきことがあるようにも思うのだが、いかんせん週刊誌のウェブサイトに記事が出た、という以外にこちらにも何も情報がなかったからだ。

その夜、森崎は報道制作局長を兼務する役員の藤原美鈴とエレベーターホールで行き合った。

藤原の顔は、普段と違った。疲弊というより、何かを決めようとしている顔だった。

「森崎さん」と藤原は言った。「中計書のVer.2、良かったよ」

「はい」

「いい計画書だった」

それだけ言って、藤原はエレベーターに乗った。過去形だった。
「いい計画書だった」——まるでもう終わったことのように。

エレベーターのドアが閉まる前に、藤原が振り返った。

「高野さんは、今夜は何も言わないと思う・・」

ドアが閉まった。

引き出しの中のコピー

その夜、森崎は経営企画室に一人で残っていた。

フロアの電気は半分落ちていた。田所は先に帰った。
廊下の向こう、報道部にはまだ灯りがついていた。中田恵子のデスクだった。

森崎は引き出しを開けた。
例のクリアファイルの中のコピーがあった。

昨夜の居酒屋。高野の横顔。「私がその先を見届けられるかどうかは、わからない」。

おそらく高野は知っていた。スキャンダルが出ることを。
それでも動じなかった。なぜか。
何かを待っているからだ——と森崎は思った。

何を?

答えは出なかった。ただ、廊下の向こうの報道部の灯りが、今夜もついていた。

翌朝の一本の電話

翌朝、森崎のスマホに非通知の着信があった。

非通知は普段は警戒して出ないのだが、この時は迷わずに通話ボタンを押していた。

「森崎さんですか。黒沢と申します」

聞いたことのない声だった。低く、穏やかで、急かすところが何もない声だった。

「サクラTVホールディングスの黒沢哲也です。一度、お時間をいただけますか。SYTさんにとって、悪い話ではないはずです」

森崎は少しの間、黙っていた。

その名前を森崎はもちろん記憶していた。いや、今もっとも気になっている人物かもしれない。
引き出しの奥のコピーのYGMキャピタルマネジメントの取締役、黒沢哲也。

「……どういったご用件でしょうか」

「直接お会いしてお話したいと思っています」と黒沢は言った「高野社長からも、一度森崎さんとお話するよう、言われていまして・・」

森崎の手が、少し止まった。

高野社長から——。

「承知しました」と森崎は言った。

電話を切った後、森崎はしばらく窓の外を見ていた。

陽北市の朝の風景が広がっていた。
それは森崎のこれまでの人生よりも長い、SYTのカメラが55年間撮り続けてきた風景だった。

ー つづく ー

 

作:楳田 良輝|Yoshiteru Umeda

 

 

*本小説はフィクションです。出典・引用などを除き、登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。