眠れなかった夜
森崎は、朝までほとんど眠れなかった。
高野社長の電話番号を知ってはいた。
何度か迷ったが、自分からかけることはできなかった。しなかった。
スマホのアラームが鳴ったのは、いつもと同じ午前6時ちょうどだった。
リビングのソファで目を覚ました。スマホの画面を見たまま、少し眠ってしまっていたようだ。
週刊誌のウェブ記事は、かなりのアクセスを集めているのだろう。
SNSにはひどい書き込みも多かった。何を知っているのか?、私もわからないのに。
「テレビ信陽・高野社長の密会、1年間の不倫関係」。
見出しはそのままだったが、続報が出ていた。写真も掲載されていた。夜の繁華街で高野と思しき男性と、隣に立つ若い女性。顔にはモザイクがかかっていたが、その男性の体格と服装は見覚えがあった。
ネットニュースが続々と追いかけていた。
ローカル局の社長スキャンダルとしては、異例の広がり方のように思えた。
共働きの妻が朝支度をしながら声をかけてきた。
「会社、大変なんじゃないの?」
森崎は「ああ...」とだけ答えた。
SYTの朝
いつもより少し早い午前8時前に会社に着くと、廊下の空気が違った。
普段なら管理部門は、まだ業務の準備に追われていない時間帯だが、あちこちで人が立ち話をしていた。声は小さいが、目が動いている。昨夜からのニュースをみんなで確認し合い、互いの顔色を読み合う——そういう朝に見えた。
経営企画室に入ると、田所蓮がすでにデスクにいた。
「森崎さん、見ましたよね?」
「見た」
「どうなるんですかね」と田所は言った。答えを求めているわけではなかった。ただ、誰かに言わずにはいられない、という顔だった。
森崎は自分のデスクに座り、パソコンを開いた。メールが数十件届いていた。業界の知人からのものが多かった。「大丈夫ですか」「何かあれば」という言葉が並んでいたが、もちろん大丈夫ではなかった。
午前9時、社内イントラネットに総務部長名義の通知が届いた。
「本日の定例会議は予定通り実施します。役員各位および関係部署は通常通り業務を行ってください。」
それだけだった。高野社長のことは何も書かれていなかった。

高野の沈黙
午前10時を過ぎても、高野社長からも、それ以外にもアナウンスらしきものはなかった。
森崎は廊下を歩きながら、社長室のある方向を何度か見た。ドアは閉まっていた。秘書が「本日は来客対応中です」と言うだけで、それ以上の情報は出てこなかった。
午後に入ると、報道部の村田記者が経営企画室に顔を出した。
「森崎さん、社長から何か聞いてますか?」
「いや、何も」
「報道部に、コメント取りの依頼が来てるんですよ。他局から」と村田は小声で言った。「こっちも困ってるんですが・・」
ローカル局の社長スキャンダルを、その局の報道部がどう扱うか。報道部が「身内の問題」を取材する矛盾。村田の顔には、その難しさがそのまま出ていた。
「藤原局長は」と森崎は言った。
「今、役員フロアに呼ばれてます...」
役員フロアの攻防
結局、その日は何か大きな進展もなく、高野社長と会うこともなく1日が過ぎた。経営企画室としては、もっと対処すべきことがあるようにも思うのだが、いかんせん週刊誌のウェブサイトに記事が出た、という以外にこちらにも何も情報がなかったからだ。
その夜、森崎は報道制作局長を兼務する役員の藤原美鈴とエレベーターホールで行き合った。
藤原の顔は、普段と違った。疲弊というより、何かを決めようとしている顔だった。
「森崎さん」と藤原は言った。「中計書のVer.2、良かったよ」
「はい」
「いい計画書だった」
それだけ言って、藤原はエレベーターに乗った。過去形だった。
「いい計画書だった」——まるでもう終わったことのように。
エレベーターのドアが閉まる前に、藤原が振り返った。
「高野さんは、今夜は何も言わないと思う・・」
ドアが閉まった。
引き出しの中のコピー
その夜、森崎は経営企画室に一人で残っていた。
フロアの電気は半分落ちていた。田所は先に帰った。
廊下の向こう、報道部にはまだ灯りがついていた。中田恵子のデスクだった。
森崎は引き出しを開けた。
例のクリアファイルの中のコピーがあった。
昨夜の居酒屋。高野の横顔。「私がその先を見届けられるかどうかは、わからない」。
おそらく高野は知っていた。スキャンダルが出ることを。
それでも動じなかった。なぜか。
何かを待っているからだ——と森崎は思った。
何を?
答えは出なかった。ただ、廊下の向こうの報道部の灯りが、今夜もついていた。
翌朝の一本の電話
翌朝、森崎のスマホに非通知の着信があった。
非通知は普段は警戒して出ないのだが、この時は迷わずに通話ボタンを押していた。
「森崎さんですか。黒沢と申します」
聞いたことのない声だった。低く、穏やかで、急かすところが何もない声だった。
「サクラTVホールディングスの黒沢哲也です。一度、お時間をいただけますか。SYTさんにとって、悪い話ではないはずです」
森崎は少しの間、黙っていた。
その名前を森崎はもちろん記憶していた。いや、今もっとも気になっている人物かもしれない。
引き出しの奥のコピーのYGMキャピタルマネジメントの取締役、黒沢哲也。
「……どういったご用件でしょうか」
「直接お会いしてお話したいと思っています」と黒沢は言った「高野社長からも、一度森崎さんとお話するよう、言われていまして・・」
森崎の手が、少し止まった。
高野社長から——。
「承知しました」と森崎は言った。
電話を切った後、森崎はしばらく窓の外を見ていた。
陽北市の朝の風景が広がっていた。
それは森崎のこれまでの人生よりも長い、SYTのカメラが55年間撮り続けてきた風景だった。
ー つづく ー
作:楳田 良輝|Yoshiteru Umeda
*本小説はフィクションです。出典・引用などを除き、登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。

