談合事件を追う報道部
中田恵子が信陽建設の案件で本格的に動き始めたのは、2月の半ばだった。
きっかけは小さかった。県の入札情報を定点観測していた若手記者の村田が、「信陽建設と陽北土建の落札パターンが気になる」と言ってきたのだ。数字を見ると、たしかに奇妙だった。県発注の土木工事において、この2社は過去3年間、金額規模によって交互に落札している。しかも落札率が一定の範囲に収まりすぎていた。
中田はその数字を自分で拾い直し、さらに3年分さかのぼった。
パターンは少なくとも6年前から続いていた。
談合の立証は難しい。数字だけでは状況証拠にしかならない。刑事責任の時効は3年、行政処分でも5〜7年程度である。中田が必要としていたのは、内側からの確かな声だった。信陽建設の関係者、あるいは競合他社の誰か、県の発注担当に近い人間——そういう人物との接触が必要だった。
2月から3月にかけて、中田は取材先への電話を増やした。古い名刺を引っ張り出し、県庁の担当部署の異動情報を調べ、退職した元職員のルートを探った。夜遅くまで残っていたのは、そのためだ。
手応えは、少しずつあった。
営業部長の来訪
3月に入った最初の週、梶田竜一が報道部に現れた。
報道部のフロアに営業部長が来ることは、珍しくはない。スポンサーの話題が報道と絡むとき、調整が必要になることがある。ただ、梶田の来訪はいつも独特の空気を連れてくる。廊下から報道フロアに入ってくる瞬間、その場の温度が少し変わる感じがあった。
「中田さん、少しいいですか?」
梶田は中田のデスクの前に立った。座ろうとはしなかった。立ったまま話すのが、こういうときの梶田の流儀だった。
「信陽建設の件、聞いてるよ」
中田は手を止めなかった。パソコンの画面を見たまま、「何の件ですか」と言った。
「入札の話。村田くんが動いてるって」
「取材の内容については」
「報道部の話はわかってる」と梶田は言った。声を低くしたわけではなかった。むしろ穏やかだった。
「ただね、信陽建設さんは今期のスポット、相当頑張ってくれてるんだよ。来期の見込みも含めて、うちの売上の柱になってる」
中田はそこで初めて梶田を見た。
52歳の営業部長の顔は、怒っていなかった。困っている顔だった。本当に困っている、という顔だった。
「それは営業部の話ですよね」
「そうだよ」と梶田は言った。「営業部の話だ。でも、局全体の話でもある。わかるでしょ」
「取材の可否は報道部が判断します」
「止めろとは言ってないよ」
言葉の上ではそうだった。
中田はそれを知っていた。梶田は「止めろ」とは決して言わない。ただ、この会話が行われたという事実が、圧力として機能する。それを梶田が意図しているのかどうか——おそらく、本人にも判然としていないだろうと中田は思った。
「わかりました」と中田は言った。「営業部のご懸念は、承りました」
梶田はしばらく中田を見ていた。何かを言おうとして、やめた。それから「よろしく」とだけ言い、報道フロアを出ていった。
中田はパソコンの画面に視線を戻した。
手が、少し止まっていた。
報道制作局長の判断
その日の夕方、中田は藤原美鈴に呼ばれた。
報道制作局長室は、報道フロアの奥にある小さな部屋だ。
藤原は窓際に立っていた。外はもう暗くなりかけていた。
「梶田さんが来たね」
「はい」
「何て言ってた?」
中田は梶田との会話を、できるだけ正確に再現した。藤原は黙って聞いていた。
「止めろとは言わなかったの?」藤原はそう言って、少し間を置いた。
「中田さん、今どこまでウラが取れてるのかしら」
「状況証拠は揃いつつあります。ただ内側からの証言がまだ弱いです。もう少し時間があれば...」
「どのくらい?」
「1ヶ月、できれば2ヶ月でしょうか」
藤原は窓の外を見た。信陽の夕景は、東京と比べれば静かだった。
「今は待ってもらえない?」と藤原は言った。
中田は何も言わなかった。
「止めろじゃないから」と藤原は続けた。
「ちょっと待て欲しいの。今は役員会の空気がとても難しい。上田専務と森元役員が同じ方向を向いてる状況で、私一人では防ぎきれない。時期を見ましょう」
「時期を見て、出せる保証はありますか?」
藤原は中田を見た。その目には、罪悪感に似た何かがあった。
「保証はできない」と藤原は静かに言った。
「でも、潰すつもりもないです。それだけは信じて欲しい」
中田は「わかりました」と言って、部屋を出た。
廊下に出てから、一度だけ立ち止まった。
信じる、という言葉の重さを、今夜は持て余しそうだった。

社内に広まった知らせ
翌朝、経理部の若手から総務部に連絡が入った。
辻本が、自宅で倒れた。
知らせが社内に広まったのは、午前10時を過ぎた頃だった。心臓発作。昨夜遅く、自宅の居間で倒れているところを——独居だったため、翌朝、様子を見に来た近所の人間が発見した。
享年67歳。午前中、社内の各部署に短いメールが届いた。総務部長名で、辻本氏の訃報と、葬儀の日程が決まり次第連絡する旨が記されていた。
報道フロアでも、そのメールは届いた。
中田はメールを一度読んで、閉じた。それ以上でも、それ以下でもない知らせとして処理しようとした。しかし、どこかに小さな引っかかりが残った。
辻本一雄。元経理部長。嘱託として残っていた古参。
中田には、辻本との個人的な接点はほとんどなかった。廊下で会えば会釈をする程度の関係だった。
ただ——最近の辻本が、何かを抱えているような印象を受けていた。根拠はない。廊下ですれ違ったとき、その背中が少し違う重さを持っているように見えた、というだけだ。
自然死だ、と中田は思った。
67歳の嘱託社員が心臓発作で亡くなる。それは、ある。
ただ、自宅に資料はなかった——という話が、午後になって経理部の中から漏れ聞こえてきた。辻本が嘱託として扱っていた書類やデータはデスクから全て消えていたが、自宅にも何もなかったという話だった。
中田はその話を聞いて、何も言わなかった。
ノートを開き、新しいページに今日の日付と辻本が亡くなったことだけを書いた。
ー つづく ー
作:楳田 良輝|Yoshiteru Umeda
*この話はフィクションです。出典・引用などを除き、登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。

