社長室のコーヒー
高野啓介の社長室は、この局の他のどの部屋とも少し違う雰囲気を持っていた。
壁には広告代理店時代に手がけたキャンペーンのポスターが数枚、額に入れて飾られている。デスクの上には分厚い業界レポートと、付箋だらけの文庫本が混在していた。応接セットのテーブルには、秘書が用意したコーヒーが二つ。高野は自分でカップを持ち、ソファに深く座って森崎を待っていた。
「中計書の再考は、どんな感じになってきた?」
開口一番、そう言った。挨拶も前置きもなかった。それが高野のスタイルで、森崎はもう慣れていた。
「骨格は見えてきました」と森崎は言った。「AIの評価レポートで指摘された『信陽でなければならない理由』を、Ver.2では最初にしようと思っています」
「具体的には?」
「信陽エリアの産業構造から逆算します。農業・食品加工・観光・地域流通——この四つが信陽の経済の実態です。これらに対してSYTが何をできるか、という問いから戦略を組み直します」
高野はコーヒーを一口飲んだ。それから少し考えるような間を置いた。
「Layer 3は」
「C層向けの目標を大幅に引き下げます。2027年度を5〜6億円から2〜3億円に。その代わり、BtoG——自治体との連携を前面に出します。防災・移住促進・シティプロモーションです。ここはキー局には絶対に入れない領域です」
「うん」と高野は言った。「それでいい。むしろそっちの方が本物だと思う」
森崎は少し意外だった。Ver.1を60点と切り捨てた経営陣の一人が、今度はあっさりと方向転換を肯定した。
「Layer 3を絞るのは勇気がいると思っていましたが...」
「逆だよ」と高野は言った。
「10億円という数字を書いた瞬間に、計画書は夢になる。2〜3億円でも、根拠があって積み上がった数字の方が、銀行も動く。信陽地域コンテンツファンドの話を本格的に進めるためにも、その方がいい」
高野はそこで少し表情を変えた。何かを言いかけて、やめたような間があった。それから、また話を続けた。
「ファンドの話は、もう少し具体的に書いてほしい。出資者の構成、投資対象、リターンの仮説——そこまで書けると、計画書じゃなくて事業提案書になる。経営陣は事業提案書には反応する」
「わかりました」
「森崎くん」と高野は言った。「今度は80点や90点じゃなくて、通る計画書を作ってくれ」
その言い方が、60点評価のときとは少し違った。あのときの経営陣はどこか試すような温度があった。今の高野の声には、それがなかった。

田所蓮の提案
経営企画室に戻ると、田所蓮がデスクでノートパソコンを開いて待っていた。
田所は28歳、入社4年目のデータ分析担当だ。経営企画室では最も若く、最もデジタルに慣れている。その代わり、テレビという媒体に対する「敬意」のようなものが、森崎から見ると少し薄い。それが強みでもあり、時々厄介でもあった。
「森崎さん、少しいいですか。Ver.2に提案したいことがあって」
田所はパソコンの画面を向けた。スプレッドシートに、グラフと数字が並んでいた。
「結線テレビのログデータです」
森崎は椅子を引いて、画面を覗いた。
「主要メーカー製スマートテレビの信陽県内の視聴ログを、2社から試験的に取得できました。サンプルですが、約3万台分。これを視聴指標としてVer.2に組み込めないかと思って」
田所が説明を続けた。ネット結線テレビの視聴ログデータは、従来のピープルメーター式のモニター調査と違い、どのチャンネルをいつ視聴したかが秒単位でわかる。母数も大きい。番組の習慣的な視聴や、県単位ではなく、もっと細かな地域別の視聴実態を詳しく把握でき、従来の視聴率よりはるかに精度が高いように見える——田所はそう主張した。
「これをVer.2の『測定可能なテレビ』という価値訴求の根拠として使えないでしょうか。広告主への提案資料にもなると思います」
森崎はしばらく画面を見ていた。
グラフやデータは見た目にもきれいだった。SYTの番組が信陽県内で詳細に、どのエリアで、どの時間帯に視聴されているか、世帯属性との相関はどうか——数字は整然と並んでいた。
「この3万台は、信陽県内の全世帯の何パーセントだ?」
「約4%です」
「どのメーカーの機種か」
「国内シェア上位の2社です。ただ、機種の偏りはあります」
「年齢層は」
「そこは……ログからは直接取れないので、登録データなどから属性を推計で補完しています」
森崎は少し間を置いた。
「田所、これは『視聴していた』と『テレビをつけていた』の区別がつくのか」
田所の手が止まった。
「つきません。ネット結線データは地上波だけでなくBS/CSのチャンネルや、一部のストリーミングなども把握できますが、人が実際に画面を見ていたかどうかは——」
「わからない?」
「はい。それには別の視聴データが必要です」
「4%のサンプルで、しかも特定メーカーに偏っていて、実際に視聴していたかどうかは判別できない。この数字を広告主に出したとき、代理店に突っ込まれたらどう答える?」
田所はしばらく黙っていた。否定されたというより、質問に追いついていない顔だった。
「……根拠が弱い、ということですか」
「弱いというより、根拠の性質が違う」と森崎は言った。「これは参考データだ。視聴指標として広告主に提示できるデータじゃない。今の段階では」
田所はノートに何かを書き始めた。反論ではなく、メモを取っていた。
「じゃあ、どうすれば指標として使えるようになりますか」
その問い方は、素直だった。森崎は少し考えた。
「統計的な代表性を確保する必要がある。メーカーの偏りをどう補正するか。受信と視聴の区別をどうするか。そのための方法論を、どこかの研究機関か測定事業者と一緒に設計する。それができて初めて、指標として提案できる」
「時間がかかりますね」
「かかる。だから今のVer.2には、このデータを『現在検証中の視聴指標』として位置づける。可能性として書く。根拠として書かない」
田所は頷いた。不満そうではなかった。どちらかというと、問いそのものに興味を持ったような顔だった。
「森崎さんは、結線テレビのログデータは最終的には使えるようになると思いますか?」
「米国などのACR(自動コンテンツ認識)を使ったデータにはまだ追いつけないが、そうなると思う」と森崎は言った。そして続けた。
「ただ、使えるようになるまでの道のりを誰かがちゃんと設計しないといけない。それをSYTがやるというのは、一つの戦略だと思っている」
「それと、あとは行動変化の把握。購買データなどが必要になる。リテールのどこかと組めるといいが...」
廊下のすれ違い
夕方、森崎がコピー機に向かう途中で、辻本一雄とすれ違った。
辻本は廊下の端を歩いていた。森崎に気づくと、軽く会釈した。それだけだった。
1ヶ月前、株主名簿のコピーを持ってきた日と同じ、静かな会釈だった。
森崎も会釈を返した。何かを言おうとして、やめた。廊下で話す内容ではない。そもそも、自分はまだあの件について何も動いていない。引き出しの奥にしまったまま、Ver.2の締め切りに追われている。
辻本の背中が廊下の向こうへ消えた。
67歳の背筋は、今日も真っ直ぐだった。
森崎はコピー機の前に立ち、Ver.2の草稿の一部を印刷した。
紙が出てくる音を聞きながら、頭の中でもう一度、高野の言葉を反芻した。
「通る計画書を作ってくれ」
その言葉の重さと、引き出しの奥にしまったコピーの重さが、同じくらいの質量を持って、森崎の中に並んでいた。
ー つづく ー
作:楳田 良輝|Yoshiteru Umeda
*この話はフィクションです。出典・引用などを除き、登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。

