経理部の古い男
ー約1ヶ月前ー
辻本一雄がその書類を持ってきたのは、2月に入って最初の火曜日の午後だった。
「森崎さん、少しよろしいですか」
経営企画室のドア口に立っていた辻本は、67歳という年齢のわりに背筋が伸びていた。嘱託という肩書きになって3年が経っているはずだが、その立ち姿はまだ現役の経理部長だった頃の癖を残していた。右手にはA4のクリアファイルを一冊。
「定例の株主名簿の更新ですが」と彼は言った。「ちょっと、確認していただきたいことがあって」
森崎は手を止めた。
株主名簿の定期更新は経営企画室の所管業務の一つだが、それ自体は事務的な手続きに過ぎない。辻本が直接持参してくることは珍しかった。彼は通常、経理部の若手を使って書類を回す。
「どうぞ」
辻本は室内に入り、森崎の正面の椅子に座った。同僚の田所蓮は今日は外出していて、室内には二人しかいない。

SYT株式の内訳
クリアファイルから取り出されたのは、最新の株主名簿と、3ヶ月前の株主名簿を並べたコピーだった。
テレビ信陽の主要株主と持ち株比率は、森崎が経営企画室に来てから頭に入れた数字だった。東京キー局が11%、信陽新聞社が18%、信陽銀行が8%、信陽建設が7%、地元企業10社で30%、その他26%——開局以来の地縁と資本の積み重ねが、そのままそこに凝縮されている。
辻本の指が示したのは、信陽建設の欄だった。
「信陽建設さんの持ち分です」
数字を見た。7.0%が、6.7%になっている。
「0.3ポイント、下がってますね」
「はい」と辻本は静かに言った。「四半期前と比べると。小さい数字ですが...」
「信陽建設から何か話は」
「ありません」
辻本はそれだけ言って、次のページに指を動かした。
「問題は、この譲渡先です」
地元の住所、実態は東京
株主名簿の「新規株主」欄に記されていたのは、こういう名前だった。
「陽信投資事業有限責任組合」
登記所在地は、信陽県陽北市。一見すれば、地域に根ざした投資組合だ。陽北市は SYT本社と同じ街であり、「陽信」という名前は信陽県の地名を逆にしたような響きを持つ。取締役会がこれを「地域の有力投資家による取得」として処理したのは、名前と住所だけを見れば無理のない判断だったかもしれない。
ただし、その下に記された一行が、話を変えた。
組合業務執行者:株式会社アルファ・キャピタルマネジメント(東京都千代田区)。
「実際の運営はこちらがしているということですね」
「はい、そういうことになります」
「登記は信陽ですが」と辻本は言った。
SYTは譲渡制限会社だ。株式を第三者に譲渡するには取締役会の承認が必要で、手続きを踏まない売買はできない。つまりこの名前が株主名簿に載っているということは、取締役会が正式に承認したということだ。
森崎は議事録の写しに目を移した。承認の理由として記されていたのは「少量の譲渡であり、経営への影響は軽微」という一文だった。賛成多数で可決。
投資事業有限責任組合——いわゆるLPS。通常はベンチャー企業への投資に使われるビークルだ。それが、開局55年の成熟したローカル放送局の株式を取得する。投資リターンの観点からはほとんど旨味のない買い物を、なぜわざわざこういう形で行うのか。
「アルファ・キャピタルマネジメントというのは」
「ちょっと調べたんですが」と辻本は言い、少し間を置いた。
「設立は4年前。代表取締役は植田という方。役員がもう一人います」
辻本が差し出したのは、登記簿謄本のコピーだった。
取締役:黒沢哲也。森崎はその名前をどこかで見た記憶があった。
そうだ、さくらTVホールディングス(さくらTVHD)株式会社の...。
知らない人はいない社名
さくらTVHDを知らないテレビ業界人はいない。
昨年から今年にかけて、業界紙を賑わせた認定放送持株会社だ。SYTとは系列が違う。だがその名前は、業界の外にいる人間でも耳にしたことがあるくらいには、この一年でメディアに頻繁に登場していた。同系列の基幹局二社が経営統合する際の持株会社として設立され、その動向は折に触れて報じられてきた。
ただし、森崎が業界人として認識していたさくらTVHDは、あくまで「自系列内の再編を進めている会社」だった。
系列内での統合——それはすでに業界の既定路線になりつつある。2025年4月1日に経営統合した「読売中京FSホールディングス」の事例が先鞭をつけ、各系列でも同様の動きが続いていた。スケールメリット、コスト削減、デジタル投資の集約。理屈は明快で、方向性に異論を唱える者は少ない。
ただ、系列を跨いだ動きはまだない。
キー局との番組供給契約、ネットワーク収入の分配構造、系列としての報道の一体性——それらすべてが、系列という縦糸で束ねられている。他系列の資本が入り込めば、その縦糸が乱れる。制度的にも慣習的にも、業界はその一線を越えていなかった。
だとすれば、さくらTVHDの役員が名を連ねるファンドが、なぜ異系列のSYT株を取得するのか。しかも信陽県に登記した投資組合という形で、ひっそりと。
「社長は」と森崎は言いかけた。
「提案者は高野社長です」と辻本は静かに言った。それ以上は何も言わなかった。
老人の顔は、何かを知っていて言わない顔ではなかった。ただ、自分の理解の外にある何かを、しかるべき場所に届けに来た——そういう顔だった。
梶田という男
その日の夕方、森崎は廊下で梶田とすれ違ったことを思い出した。
営業部長の梶田竜一は、今日も精力的だった。52歳の体には業界歴30年分の筋肉がついており、廊下を歩く速度も声の大きさも、部下への指示の密度も、すべてが「俺がこの局の売上を支えている」という確信から来ていた。おそらくそれは、半分は正しかった。
「森崎さん、次の中計書、どうなってますか」
梶田は立ち止まらずに言った。歩きながら話しかけるのが彼の流儀で、「忙しい」を全身で体現するスタイルだった。
「今、書いてます」
「信陽建設さんのスポット、今期は相当頑張ってもらえそうですよ。来期の計画数字にも入れておいてください」
森崎は「はい」と答えた。
梶田はそのまま廊下の向こうへ消えた。
信陽建設。
梶田がその名前を出すとき、いつも通りの営業部長の顔をしていた。20年来の付き合いがある得意先の名前を、当然のように口にする顔だ。株主名簿の変化のことを、あの時、梶田は知っていたか。知っていたとして、気にしていたのか。
おそらく——知らない。あるいは知っていたとも、「少量の譲渡で経営への影響は軽微」という取締役会の説明をそのまま受け取っているのだろう。梶田にとって信陽建設は株主である前にスポンサーであり、20年分の人間関係だ。その関係が今も続いている限り、梶田の世界に問題は存在しない。
机にしまった株主名簿
デスクの上に、辻本が置いていったコピーが残っていた。
森崎はもう一度、その数字を見た。0.3ポイント。テレビ信陽の発行済み株式総数から逆算すれば、十数万株。金額にすれば数千万円。それ自体は、SYTの規模からすれば小さい数字だ。
問題は意図だ。
LPSがローカル放送局の株式を持つ合理的な理由は、投資リターンの観点からは存在しない。それを買うとすれば、理由は一つしかない——将来的な影響力の取得、あるいはその準備。
そして、さくらTVHDの役員が関係するファンドが、異系列のSYT株をその入口として選んだとすれば。登記は信陽県、運営は東京。名前は地域の投資組合を装い、取締役会は「軽微な譲渡」として承認した。
仕掛けとしてなら、よくできている。
疑う余地を持つとすれば、それは——提案者である高野社長だけが、それはないだろう。
森崎はパソコンを閉じた。書かなければならないことがある。中期経営計画書は、実はまだ白いままだ。
辻本からの株主名簿のコピーは、引き出しの奥にしまった。
報道部の灯り
午後10時を過ぎても、報道部のフロアには明かりがついていた。
森崎が帰り際にそれに気づいたのは、エレベーターホールから廊下を歩いていたときだった。いつもなら夜の報道部は当直デスクの一灯だけが残るが、今夜はもう一つ、奥のデスクにスタンドライトが点いていた。
中田恵子が何かを読んでいた。
薄い資料のようにも見えたし、ノートのようにも見えた。森崎とは廊下を隔てたガラス越しの距離で、中田は森崎の存在に気づいていない。
報道部デスクが夜遅くまで残ることは珍しくない。ただ、最近の中田の残り方には、締め切りを抱えているときとは少し違う種類の緊張感があった。取材中の案件を抱えている人間の、静かな集中。
森崎は立ち止まらなかった。
エレベーターのボタンを押しながら、今日の辻本の言葉と、信陽建設という名前と、廊下の向こうの灯りを、頭の中で同じ引き出しに入れそうになって——やめた。
根拠はない。ただの整理だ、と彼は思った。
——
あれから、1ヶ月が過ぎた。
森崎に再考を託された中期経営計画書案Ver.2の締め切りは、間近だった。
ー つづく ー
(楳田 良輝)
*この話はフィクションです。
出典・引用などを除き、登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。

